講義

歴史編

(1)忍者の起源

講師 西本良治郎

忍者という文字ですが、辞書には、
[忍者]
忍術を使って密偵、謀略、後方撹乱、暗殺などを行う者。戦国時代、各家に抱えられて活躍。

[忍]
1.がまんする。しのぶ。忍従、忍耐、隠忍、堪忍、容忍。
2.むごい。残忍。
3.人目をくらます。忍者、忍術。
(大辞林)
とあります。
なんとも、暗いイメージが強調されています。
はたして、忍者はどのような者達だったのでしょうか。
まずは忍者の起源について、学んでみたいと思います。
いくつか説があります。
ひとつ目は大和朝廷時代、高い知識と技術力を持っていた帰化人の流れを汲むという説。
二つ目は修験道から生まれたという説。
修験道というのは山岳信仰を背景に密教や道教、神道が融合した日本独特の宗教で、中世から江戸時代にかけて大変大きな力を持っていた宗教です。
三つ目は遠い時代に山に入った非農耕系の狩猟や炭焼き、採鉱など特殊な技術を持った山人の流れであるという説。
四つ目は武士階級の勃興とともに、部族ごとの自衛の必要性から生じたという説。

などなどがあげられ、あるいはそれらが複合的に影響しあったということが考えられます。
いずれにしても、里に暮らす人々とは異なる思想と、常ならざる技をもっていた集団であったことは間違いありません。

日本の歴史上、忍者の活躍らしきものが伝えられるのが、6世紀、飛鳥時代の頃です。
蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇や要人を暗殺したとか、聖徳太子が秦河勝や大伴細人らを使って情報を収集したと伝えられています。
この頃の大和政権を取り巻く政治情勢は、大陸では強力な隋王朝の出現、韓半島では南下する高句麗、新羅の強勢と対立する百済など日本を含めて動乱の世界であったのです。
ここで、注目するのは蘇我氏にしても漢氏、秦氏にしても渡来人系であったと想定されることです。
大和朝廷では渡来人が氏族を形成し、大豪族となって、その結果、外来で最新の制度、宗教、技術を導入し、強力に発展していくわけです。
特に秦氏というのは機織、鋳造、木工、の先進技術を持った帰化人集団で、地方にも進出し、大分の宇佐八幡宮の八幡信仰や稲荷信仰との関連も深く、太秦という地名も秦氏ゆかりといわれています。

当時は東北アジア全域を揺るがした動乱の時代だったわけですから、伝来の技術のなかには当然、兵法があり、軍事や謀略の手法があったことは容易に想像できます。
その頃の兵法とは何だったのでしょう。
中国の兵法書といえば、数多くあるのですが、なんと言っても「孫子」がおおもとです。
これは中国の春秋時代、紀元前5世紀ごろ、呉の孫武が記したといわれる世界最高の兵法書です。
飛鳥時代、隋や韓半島の渡来人の教養として、身についていたとしても不思議ではありません。

「孫子」の用間編は諜報活動の重要さについて、以下のように記しています。(「用」は使い方の意、「間」は間者、今でいうスパイのこと。)

「戦争というものは、大量の兵隊を動員し、多額な費用がかかり、長い年月がかかり、国は衰弱し、人民は疲弊してしまう。
戦争はできればしないほうが良いし、する場合はできるだけ早く終結させることが肝心である。
名将が必ず勝利を得るのは、事前に敵情を完全に知っているからであって、わずかな報奨金を惜しんで、間者を用いて敵情を探ることのできない指揮官は、結局は国や人民への思いやりが無いダメな人間である。」

また間者の種類に関して以下のように記しています。

「間者には5種類ある。
因間とは敵国内の民を用いる。内間は敵国の役人を用いる。反間は敵の間者を逆用する。死間は偽情報を敵の耳に入れる。生間は敵地に潜入させ、情報を持ち帰らせる。」

孫子の兵法は紀元前の成立なのに、戦争における情報戦がいかに大切なのかを説いています。
まるで、007の映画のようです。
有能なスパイにいくらお金を積んでも、惜しくないとまで言っているのです。

どうですか、「孫子」が忍者の成立に関係があるかどうかは明確に確認できることではありませんが、ここでいう間者が忍者の一原型であることは間違いがありません。
すなわち忍者というのが、特殊な技術で人を殺すのだけが目的でなかったことが、分かったことと思います。