歴史編
(4)忍者ヒーローの成立
ヒーロー真田十勇士
明治から昭和にかけて、日本中の子供達を夢中にさせた忍者のヒーローがいます。それは真田十勇士の猿飛佐助です。
もちろん架空の人物です。
江戸時代、元禄頃に「真田三代記」という戦記本が出版されたそうです。
これが上方の講談のタネ本となって取り上げられ、人気を博したそうです。
真田三代記は、信州上田の戦国武将、真田昌幸、幸村、大助の華々しい活躍を、フィクションをまじえて創作したものです。
明治の末期に大坂の立川熊次郎という人が、講談物や戦記物をベースに講談小説として、子供向けに豆本を発行しました。これが有名な立川文庫です。
この中の「真田幸村」、「猿飛佐助」が大ブームとなりました。
この頃、新キャラクターとして猿飛佐助や霧隠才蔵が加わり、真田十勇士の全体像が固まってきます。
忍者ブームはその後も続き、昭和11年に東京の中村書店が「まんが真田十勇士」、「まんが猿飛佐助」を発刊して、子どもたちに大人気となりました。
この頃になると、真田幸村より、個性的な十勇士のキャラクターが前に出てきて、旅をしながら、関東方を相手に大暴れするというものになります。
江戸時代の講談から戦後の映画、漫画まで、架空の人物である「真田十勇士」や「忍者・猿飛佐助」がどうしてこれほどの人気を保ち、かつ子供や若者達に多くの影響を与えたのでしょうか。
これはもちろん、真実の真田一族の歴史でも、忍者の実態を明らかにしたものではありません。
しかし、真田一族の現実の歴史無くして、日本中の子供達に夢と元気を与えた十勇士や、猿飛佐助も生まれてはこなかったのです。
歴史を学び、フィクションに親しむことは、NINJAを考察するうえで、とても大切なことです。
歴史上の真田一族
■武田の謀将 真田幸隆
東信濃から西上野にかけては小豪族滋野一族の領地でした。
海野、祢津、望月を滋野三家といいます。
この地は越後と関東を結ぶ重要経路に位置しています。
戦国時代初期、甲斐国の武田、越後国の上杉に挟まれて、戦乱に巻き込まれていきました。
天文10年(1541)に甲斐の武田信虎が奥信濃の村上義清、中信濃の諏訪頼重と組んで、海野平の滋野諸族を攻撃、海野一族の真田幸隆(真田家の開祖)は父と共に上州に落ちのびました。
しかしこの年、武田信虎が子の晴信(後の信玄)に追放されて、情勢が変わります。
天文12年、信濃攻略を狙う武田信玄は、浪々の身の幸隆を雇います。
やがて、諏訪氏を滅ぼし、村上氏を追い出し、上杉謙信と対決していきます。
所領復活を願う、このときの幸隆の活躍は武田家の謀将として目覚しいものがありました。
■乱世の名将 真田昌幸
天正元年(1573)武田信玄が亡くなり、翌年、あとを追うように幸隆は亡くなりました。
真田家は長子信綱がつぎました。
しかし信綱とその弟昌輝が天正3年の長篠の戦いで戦死してしまいます。
信玄に可愛がられ、武藤氏をついでいた三男昌幸が甲斐から帰り、家督をつぐことになりました。
これが煮ても焼いても食えない乱世の名将、「真田昌幸」の誕生です。
昌幸は隣の沼田をも支配し、その領地を護ることに全力を投入するのですが、早くから武田勝頼の力量を見限っており、北条に仕えます。
天正10年織田信長が本能寺で殺され、今度は徳川に従いました。
徳川家康は豊臣秀吉と対立、北条と手を結びます。
そして旧武田領のうち真田領の上野を北条の支配とすることにしてしまいました。
昌幸はこれに猛反発して、対立する上杉と手を結び、秀吉に臣従を申し入れました。
このあたりが乱世を生きる武将、真田昌幸の真骨頂です。
力の無い大名にはこんなことはできません。昌幸はあくまで自分の領地は自分で守る覚悟なのでした。
天正13年、家康は怒り、7千の兵で上田城を攻めさせました。
昌幸は上田城に籠り、長男信之(信幸)に戸石城を守らせた。
この時の真田側の作戦は少人数で城に籠り、地勢を生かし、奇策をもって、敵を誘い込み、一気に叩く戦法。
現代でいうゲリラ戦のようなものです。
徳川勢は真田軍の奇襲攻撃に震え上がり、結局、退却しました。
これは、真田が地勢を熟知し、情報戦に長け。土木などの技術を持ち、有能な熟練の部下をもっていたからできたことでしょう。
ここでも、昌幸が単に強いだけの古典的な武将ではないことが分かります。
その結果、名将、真田昌幸の名は一気に全国に知れ渡るのでした。
これは想像ですが、昌幸も修験者達との交流から、孫子の兵法や、墨家の兵法を学んでいたのではないかと思われます。
天正14年、豊臣秀吉と徳川家康は和解。
同18年に小田原城が陥落、北条氏滅亡。
昌幸は秀吉直轄でありながら、徳川配下という奇妙な立場になりました。
長子信之を家康のもとに、次子信繁(幸村)を秀吉のもとに送ります。
秀吉の没後は昌幸、信繁(幸村)も家康配下となりました。
慶長4年(1599)犬伏の陣中の真田父子に石田三成の密書が届けられた。
そこには、大坂方が家康と対決することと、秀頼への忠節の要求が記されていた。
真田父子が出した結論は、信之は徳川方に、昌幸、信繁(幸村)は大坂方につくというものでした。
慶長5年、いよいよ天下分け目の関が原の合戦です。
家康は東海道を西上、秀忠は宇都宮から木曾街道を西上した。
このとき、秀忠はコースから外れている上田城をわざわざ攻撃。
しかしここでも、徳川軍は昌幸の策略に乗って、手ひどい打撃を蒙ってしまったのです。
その結果、秀忠は肝心の合戦に間に合わず、おおいに面目を失ってしまうことになるのでした。
天下分け目の戦は西軍の敗北。
昌幸、信繁(幸村)は再々にわたる信之の命乞いにより、高野山の麓の九度山に蟄居の身とされてしまうのでした。
幸村32歳の時です。
■悲劇の智将 真田幸村
これまでの、生涯をほとんど戦乱の中で生きた昌幸、幸村父子は九度山で幽閉の身となって暮らしました。供の者は10数名程度かと伝えられます。
父子の生活の面倒をみたのは、真田家を継いだ長子、信之でした。
慶長16年、昌幸は失意のうちに65歳で没しました。
慶長19年、幸村に転機が訪れます。
豊臣秀頼の使者が、黄金200枚、銀30貫をもって、大坂入城を求めてきました。度重なる徳川の嫌がらせにとうとう大坂方は挙兵に追い込まれ、全国の恩顧の武将、浪人に参集を命じたのでした。
幸村は子の大助らとともに大坂城に入りました。
大坂冬の陣の始まりです。
ここでも、幸村は真田独特の戦法を使います。
最も敵の攻撃を受けやすい城の東南に出丸を築いてしまったのです。
「一段高い畑があったところを三方に空堀を掘り、塀を一重かけ、それぞれ柵を三重にかけ、所々に矢倉、井楼を造り、塀にそって武者走り(通路)を造った」
とありますから、故郷、真田の難攻不落の地勢を人工的に作り上げたかのようでもあります。
これが有名な真田丸です。
ここで、幸村は爆薬を使ったトリックを使い、真田丸に押し寄せた徳川方に大損害を与えました。
冬の陣は勝負がつかず、いったん和議が成立。
家康はなんだかんだ手を打って、大坂城を丸裸同然にしていきます。
翌慶長20年、夏の陣開始。
内堀、外堀を埋められた大坂城にもう守り抜く力はありません。
豊臣方は城を出て戦い、次々に敗北。
最後の決戦の日、大助を城内に残し、幸村隊は出陣します。
幸村はここを死に場所ときめ、全員、赤一色の装束、家康本陣めがけて、一直線に突撃しました。
先鋒松平隊を撃破、家康本陣に迫り、突撃を繰り返します。
しかし、多勢に無勢、とうとう、疲れ果てたところを幸村は無名の兵士に首を取られます。
翌日、大助は秀頼に殉死。
真田幸村の闘いは徳川方からも賞賛の声が上がり、「真田日本一の兵」と言われました。
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以上が簡単な真田戦記ですが、これがフィクションとしての真田十勇士に発展していくのにはいくつかの「謎」がキーポイントとなります。
真田関連の講談や漫画、小説を書いた多くの作家たちは、基本的にはこの「謎」に疑問を持ち、データを掘り下げ、そしてそこに大いなる「物語」を構築していったのです。
■判官贔屓
まず、真田一族のなかでの名君といえば、昌幸でも幸村でもありません。
これは紛れもなく真田信之です。
二十歳にして、父昌幸に支城、戸石城をまかされ、徳川方を撃退したほどの戦上手のうえ、時の流れを読むセンスがあり、徳川方に組みしました。
関が原の合戦の後は昌幸、幸村父子の暮らしの面倒を見、幸村戦死後も大名であり続け、松代へ転封後は信濃を代表する10万石藩主として善政を行い、真田家の血筋を守ったのです。
しかし、真田といえば幸村のことで、信之の名を知る人は多くはありません。
これは、明らかに日本人特有の判官贔屓でしょう。
判官というのは源九郎判官義経のことです。
鎌倉幕府を開いた兄頼朝に追われ、31歳で自刃した義経は、その悲劇性を持って人々に同情され、愛されました。
確かに現代に生きる私達にでも、敗者や弱者に肩入れしてしまう特有の感情は抜き差しがたくあります。
大坂夏の陣で死を決意し、家康本陣に何度も切り込んで、壮絶な戦死をした幸村を、当時の徳川方の記録でさえ賞賛しているのですから、幸村が民衆の英雄になっていくのは、当然のことでしょう。
■犬伏陣中の昌幸の判断
この時の真田昌幸の判断はとても、解釈の難しいものです。
乱世を生き抜いてきた昌幸ですから、縁故や義理で大坂方につくとはとても思えません。
大恩ある信玄の嫡男勝頼でさえ平気で見限ったドライな昌幸が豊臣秀頼の凡庸さを見抜けなかったわけがありません。
真田家の存続を願って、徳川氏、豊臣氏に両てんびんを掛けたという見方が一般的なのですが、昌幸は本能的に家康が嫌いだったという方が、納得がいきます。
私は、それまでの経緯からみて、昌幸は東信濃、真田郷の地を絶対に離れたくなかったのだと思うのです。
天然の要害である真田の地あってこその真田一族だという思いがあったのではないかと思うのです。
■修験道の家系
真田一族に大きな影を落としているのは、徳川家康でも豊臣秀吉でもありません。武田信玄です。
信玄こそが、天下を狙って、独自の諜報・謀略・監察機関を持ち、忍者を駆使したことで知られる武将だからです。
武田信玄が真田幸隆を、重用したのは事実でしょう。
三男昌幸は信玄の小姓であったわけですから、とても期待されていたはずです。
信玄は当時最大の宗教ネットワークであった修験道の力を利用しようとしていたふしがあります。
恐らくは幸隆の修験道系の特異な能力に注目し、重用したのだろうとも思えますし、その後の幸隆の戦い方を見ても、巷間、「孫子の兵法」であったといわれるほど、謀略的な手法を得意としていました。
信玄は幸隆を部下というより、信濃の一豪族として寓していたようです。
ここで、もう一度、幸隆の出身地を見直しておく必要があります。
真田氏の本拠地、真田盆地は四阿山、烏帽子岳、太郎山に囲まれたところです。この四阿(あずまや)山は山岳宗教の霊山であり、加賀の白山ヒメ大神を山頂に勧請しています。
多くの修験道の山伏達が修行場としており、関東一円の修験道ネットワークの要衝でした。
真田氏の本家、滋野一族は中世以来、陰陽道や呪術を扱う祈祷師や占い師の集団であって、山伏姿で配札、売薬、医療の仕事をし、全国各地を歩いていたと伝えられています。
真田一族と修験道の山伏との関係はとても深いのです。
つまり、真田一族はその出生からして、修験道系の忍者の一族であったと言えなくもないのです。
■九度山時代
真田幸村は14年間、九度山に幽閉されています。
その間、何も動くことは無かったのに、大坂城に招聘されて、いきなり目覚しい活躍をしました。
武将として、まったく錆びていないのです。
これは、誰だって怪しいと思います。
実際の幸村の暮らしぶりは辛いものであって、大坂入城は死に場所を求めてのことである言われていますが、
「九度山の幸村のもとに密かに有能な部下が集まり、全国から情報を集め、虎視眈々と天下の形勢を睨んでいた。目立たないように忍者達も暗躍していた。」と考えるのは当然の推理です。
物語としての真田十勇士
■真田十勇士
幸村の悲劇的な戦死という結果から原因を作り上げていくのは作家の常套手段です。
謎に満ちた真田一族の盛衰はそれだけでも十分、魅力的な戦記物語になります。
しかし、「真田三代記」が上方の講談で人気を博したとか、大坂で立川文庫が出版されたことを考えると、まず上方人の家康嫌いがあり、その上で庶民の判官贔屓、反権力の志向というのがあったと思われます。
反骨の真田昌幸、悲劇の真田幸村というキャラクターが浮上してきました。
徳川方についた名君真田信之は消去されます。
さらに、家康の大きさに対抗するためには、智将幸村一人ではモノ足りません。
多くの優秀な部下がいたのだろうという推測から、嫡男大助と共に、次々と十勇士が登場してきました。
本家、海野一族出身の参謀海野六郎、望月家の出身で幸村の影武者望月六郎、祢津家の流れ根津甚八、元武田の家臣穴山小助、鎖鎌の名人由利鎌之助、鉄砲の名手筧十蔵、18貫の棍棒を操る三好清海入道、清海の弟伊三入道。
そして最後に伊賀の忍者霧隠才蔵、甲賀忍者猿飛佐助が加わる。
彼らが最後まで幸村と行動を共にし、徳川方を相手に奮戦するのでした。
このパターンは講談や立川文庫の作家達が、三国志や水滸伝、そして西遊記などの中国の武侠・伝奇小説に範を求めたものでしょう。
■猿飛佐助
さてここで、思うのですが、この真田十勇士の物語は、実は二重構造になっていて、猿飛佐助というスーパーヒーローが飛び出すことによって、真田三代の「戦記物語」から「忍者物語」へと変質してくるのです。
漫画の猿飛佐助では、幸村はあまり登場しなくなります。
むしろ佐助と才蔵たちの全国情報収集冒険旅のようになっていきます。
底抜けに元気な忍者猿飛佐助と霧隠才蔵や清海入道などの個性豊かで特殊能力の持ち主の仲間達の大暴れに焦点が当てられます。
背景となる経緯がそぎ落とされて、猿飛佐助はそれ自体で一人歩きしてくるのです。
これをヒーローといいます。
たかが漫画の世界といってしまえばそれまでのことですが、昭和初期の暗い時代に、佐助が示した、印を結んでドロンと姿を消すことのできる忍術の凄さや十勇士の仲間達との連携プレーはどれほど多くの子供達に夢と元気を与えたことでしょう。
戦後になると杉浦茂の、はちゃめちゃな猿飛佐助や、白土三平のリアルな分析のサスケが登場しますが、これらになんらかの影響を受けた戦後世代の若者はとても多いのです。
新しい忍者像
さて、真田一族の勃興から、真田幸村、猿飛佐助まで、「歴史」と「物語」を一本の線で無理やり結んで考察してみましたが、真田郷の地も含めて、真田一族全部をガラガラポンとまとめて、その前向きなところを集めると、「忍者・猿飛佐助」になったと私は思うのです。
そこには権力に媚びずに、そして自立、自由を願った人々の匂いが感じられます。
忍者というプロ集団は存在自体が秘密でしたので、どのような実態であったのかは、なかなか、うかがい知ることはできません。
しかし、物語の忍者は明確にメッセージを発します。
私達はそれを感じることによって、その時代が「求めている忍者」を知ることができます。
例えば、未だ私たちが物心付くか付かない、戦後の20年代後半から30年代前半は「児雷也」等大蝦蟇に乗って現れる荒唐無稽な忍者が荒廃した世の中に夢を与えてくれました、そして昭和37年(1962年)大映映画「忍びの者」市川雷蔵(大映)がヒットし、それまでの妖術使いのような漫画的忍者像がリアルな忍者像に変質します。その頃は、ようやく敗戦から立ち上がった日本はアメリカに「追いつけ追い越せ」の高度成長期の真っ只中です。
戦国末期、天下取りの権謀術数が渦巻く中、伊賀の優秀な下忍、石川五右衛門は、組織の命に信長暗殺を狙う。
そして、組織の陰謀に翻弄されるという設定で、最下層の忍者の過酷な使命と人間性との葛藤を描いたものです。
組織の最下層でうごめく暗殺者を、時代背景とともにリアリズム的に表現した作品です。
これは当時のモーレツ サラリーマンの共感を呼びました。
同年に発表された忍者小説、司馬遼太郎の「風神の門」は、風雲急を告げる大坂の陣前から大坂城落城まで、集団行動主義の甲賀の猿飛佐助と個人主義集団の伊賀の霧隠才蔵の活躍を軸に、新しい忍者像を描いた作品です。
主人公は伊賀忍法の名人、霧隠才蔵。
才蔵は自分に大志があるものの、それが何であるのかわからない。運命に赴くまま、自ら危険な境遇を選び、次から次へと強敵を倒していく。
美男子で、ドライだが、女性に弱い。
口では個人主義を標榜しながら、古いタイプの優秀管理職を思わせる佐助に共感もする。
これも、組織の中で、人生をかけて戦っているビジネス戦士の深層願望とシンクロするところがあり、評判となりました。
忍者像はこうして、幻想の存在から、現実世界を生き抜く人々の目線で見ることのできるリアルな存在になってきました。
私自身はこうした作品や忍者像は嫌いではありません。
しかし、ややもすると、歴史上のミステリーゾーンをファンタジーの忍者を配することにより、説明するだけということになりがちです。
新しい時代の忍者はもっともっと自立して、ヒーローとして活躍をしてもらわなければなりません。
「子供が親を殺してしまうこんな時代」だからこそ、佐助と愉快な仲間達のような、強くてやさしい、元気いっぱいの忍者に出現してもらいたい。
と私は願っています。
